追悼 河野昌人。クローザーに定着してほしい投手であり、シドニーオリンピックの経験などジュニアに教えたかった事はたくさんあったはずなのに。。。

2017年6月16日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。

広島東洋カープ-福岡ダイエーホークスで投手として活躍した河野昌人の死去。

39歳の人生は短すぎる。

シドニーオリンピック戦士、河野昌人!

河野昌人は1996年ドラフト3位でカープに入団。

当時のドラフト1位は新人王に輝いた沢崎俊哉、2位は名球会投手黒田博樹。

その次の3位での入団であり、球団の期待も高かったはずだ。

その期待に応えるべく、1998年にプロ入り初登板を果たすなど徐々に力を発揮していった。

そして、河野昌人と言えば、シーズン46登板を果たした2000年に開催されたシドニーオリンピック代表に選ばれた事が一番印象深い。

このシドニーオリンピックからプロ選手の参加が認められた野球競技、パシフィックリーグは参加に協力的で、各球団1軍の中心選手を1名派遣していた。

対してセントラルリーグは派遣に消極的であり、参加したのは中日ドラゴンズの鈴木郁洋とカープの河野昌人のみであった。

投手では球界を代表するエース松坂大輔と黒木知宏が選ばれおり、アマチュアでも後にプロ入りする選手がほとんどであり、河野昌人の登板機会は限られていた。

そうした環境で得た経験を自分自身や球団に持ち帰ってきてほしかったが、そうは上手くいかず、シドニーオリンピック以降は登板数も減少していき、2003年にカープを自由契約。

そして、テスト入団で福岡ダイエーホークスに入団したが、1年限りで2004年に現役を引退した。

その後、社会人野球のクラブチーム佐賀魂で投手兼任コーチ、ホークスジュニアベースボールスクール佐賀校のコーチを務めたが、ここでは彼の経験が活かされたのではないだろうか?

単なるプロ野球選手ではなく、プロアマ混成のオリンピック代表に選ばれた選手は少ない。

ジュニアのコーチをしていたようだが、もっともっと伝えたいことがあったはずだ。

どう考えても39歳での死は若すぎる。。。

 

 

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