1991年のカープV戦士:石貫宏臣が千葉ロッテマリーンズの1軍戦略コーチ就任!

2017年の千葉ロッテマリーンズのスタッフが発表になって驚いた。

1991年のカープ優勝時に貴重な中継ぎサウスポーとして活躍した石貫宏臣が1軍戦略コーチとして入閣したからだ。

バッティング投手から戦略コーチに異色の転身!石貫宏臣!

1991年のカープ優勝時、先発に川口和久、クローザーに大野豊というサウスポーがいたが、中継ぎにも石貫宏臣というサウスポーがいて、リーグ優勝に大きく貢献した。

シーズン途中に清川栄治が近鉄バファローズに移籍し、中継ぎサウスポーは石貫宏臣が孤軍奮闘していたのだ。

(1991年シーズンに登板したサウスポーは、川口和久、大野豊、清川栄治、石貫宏臣、そして畝龍実の5人だけだが、畝龍実は2試合計3イニングしか登板していない。)

ローテーションの谷間には先発をこなすなど、46試合計50イニングに登板、5勝1敗1セーブ、防御率1.98と素晴らしい成績を残した。

しかし、この年の疲労が溜まってか、翌1992年に32試合(27.2/3)で0勝2敗、防御率5.20と精彩を欠き、この年以降、1軍で登板することはなかった。

そして、1995年4月にはダイエーホークスにに金銭トレードで移籍。

西日本短大付出身なので地元に戻った形だが、実力を発揮できず戦力外に。

1996年に千葉ロッテマリーンズにテスト入団したものの、同年現役引退し、マリーンズの打撃投手になっていた。

その石貫宏臣が1軍の戦略コーチに就任したのだ。

1軍戦略コーチはとても重要なポジションになるはずだ。

チームによってはヘッドコーチやチーフコーチと呼ばれ、監督の参謀となっていることが多い。

ポジション的にも監に次ぐ位置であり、監督が体調不良や退場処分によってベンチを外れた際には監督を代行するケースもあるのだ。

石貫宏臣がなぜバッティング投手から1軍戦略コーチになれたのだろうか?

バッティング投手は、もちろん練習中は練習の補助をするが、試合が始まるとスコアを付けたり、ビデオを録画したりと、別の仕事を行っている。

石貫宏臣の場合は、これまでも打撃投手兼チーフスコアラーとして、試合中にベンチに入ってデータ分析を担っていたらしい。

しかし、コーチという立場の方が選手に伝わりやすいとチームが判断しての配置転換。

独自の視点や分かりやすいアドバイスで戦略を提案していたと予想できる。

こうした配置転換、畝龍実と似ているのかなと思う。

畝龍実は現役引退後にカープのスコアラーに就任したが、動作解析装置開発の功績を評価されるなど「動作解析のエキスポート」と呼ばれていた。

その力を発揮すべく、2014年シーズンには一軍投手コーチ兼分析コーチに、そして2015年シーズンからは一軍投手コーチ専任となり、2016年のカープ優勝に貢献している。

人間、自分の力がどこでどのように発揮されるかは分からないものである。

ただし、その力が発揮できるように、チームとして最善の配置になるようにするのが球団側の仕事と言えるのだ。

石貫宏臣がベンチに入る千葉ロッテマリーンズの戦いに注目したい。

 

 

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